コラム

吉原という場所

日本で最も有名なソープランド街 吉原

吉原は、日本最大級のソープランド街です。日本三大ソープ、吉原、滋賀県の雄琴、熊本の中でも飛び抜けて有名な場所です。

それはおそらく、吉原遊廓があまりにも有名だったからでしょう。吉原遊廓を舞台にした映画なども多数あります。マンガでも吉原遊廓や花魁をイメージしたと思われる舞台は良く出てきます。

かつては上流階級の集まる社交場として機能していた吉原。世間から隔絶された綺羅びやかな場所。吉原遊郭で遊ぶためには、数百万円の大金が必要だったそうです。文化やファッションの発信地でもありました。

現在は、そういったかつての面影はほぼ無く、一般的な住宅地の中にソープランドが密集しています。ソープランドは風営法の特例地域として【現在の建物を使う限り】営業が出来るようになっています。そのため、建物は昭和のまま。良くも悪くもどこか懐かしい雰囲気です。実際の遊郭跡はド派手なイメージと違って意外と地味な場所が多いのです。

観光客も増えてきた?吉原の有名スポット

吉原という街は、昔から続いてきた歓楽街。日本を代表するソープランド街としても重要な場所ですが、歴史的な意味でも重要な場所になっています。ここでは吉原の有名なスポットを紹介します。

衣紋坂・五十間道

土手通りから吉原遊廓への唯一の入り口、吉原大門へ続く道。この道はS字カーブを描いており、先が見えません。これは遊郭の中が見えないよう、そして遊郭に遊びに来た事が分からないための設計だったようです。

吉原大門(よしわらおおもん)

吉原遊廓への唯一の出入り口。かつては黒塗りの豪華な門があったそうですが、関東大震災で壊れてしまいました。現在は門そのものは無く、代わりに「よし原大門」と書かれた柱があります。意識してなければ見落とすかもしれません。

ここは厳重な警備体制が敷かれていた場所。医者以外は籠に乗ったまま通過できず、大門を入って左側には岡っ引がお尋ね者を監視、右側では遊女が逃げ出さないか見張る番人が常駐と、厳戒態勢だったそうです。

遊女がこの大門から外の世界に出ていくには、年季明け(27~28歳)まで勤め上げるか、借金を完済するか、お客さんに借金を肩代わりしてもらうか、のいずれかでした。遊女というと、一生遊郭に閉じ込められたままというイメージがありますが、8割の人は年季明けと共に外の世界に出て行きます。外の世界で働けない人は遊郭に残り、調理や雑用などの仕事をして暮らしたそうです。

見返り柳

吉原大門の近くにある見返り柳。吉原から帰るお客さんがこの柳のあたりで遊郭を振り返り、なごりを惜しむということで見返り柳と呼ばれるようになったそうです。現在は見返り柳と書かれた石碑が置かれています。

土手の伊勢屋

吉原大門の前にある明治22年創業の有名な老舗天ぷら屋です。常に行列が出来ています。吉原に通うお客さんを相手に繁盛したのだとか。伊勢屋の建物自体が文化財に指定されています。ボリュームのある天丼とお吸い物がとにかくウマい店。天丼は1500円~2500円と少々値は張りますが食べる価値があります。

お歯黒どぶの石垣跡

かつての吉原遊廓は、遊女が逃げないように、深いドブで囲われていました。現在そのドブは道路になっていますが、石垣のほんの一部が残されています。どぶは幅9m、深さ2mもあり、そこを生活排水が流れていたそうです。

吉原神社

吉原神社は稲荷神社と弁財天を合祀した神社です。最近では御朱印巡りで一般観光客も増えています。

吉原の語源

吉原というと、ソープ街、江戸時代の吉原遊郭というイメージが強いのですが、実は全国各地にある地名です。

静岡、新潟、大阪、京都、岡山、福岡などなど。西に行くほど【よしわら】ではなく【よしはら】読みになるようです。最果ては石垣島北部の吉原でしょうか。※沖縄市コザにも吉原がありますが、ここは東京吉原にあやかって名付けたられた、社交街という遊郭的な場所です。

この吉原という言葉はもともとは、葦原・葭原と書いていた場所が多く、葦(ヨシ・アシ)の生い茂る原、つまり川沿いや湿地帯によくある地名だったそうです。アシだと悪しを連想するので、吉(ヨシ)にしたのだとか。

東京の吉原は、今の台東区千束の前は、日本橋葺屋町の湿地帯にありました。今の人形町の方です。当時は葦が生い茂る場所。そこで葭原と名付けられました。現在の、台東区千束の方ももともと湿地帯だったそうです。

吉原の成り立ち

幕府公認遊郭 葭原の誕生

吉原の開業は1617年。江戸幕府が誕生したのが1603年。当時の江戸は、ほぼ更地です。日本中から人が集まりものすごい勢いで商店や長屋が増え、それに伴い、遊女屋、現在で言うところの風俗店が増えていきました。

幕府は江戸を都として機能させるべく区画の整理を進めていきます。そのため、庶民は度々、移転させられる事に。中でも遊女屋は事あるごとに移転を求められていました。そこで遊女屋は移転しなくていいように、遊女屋専門のエリアを作って欲しいと幕府に陳情し、その結果、日本橋葺屋町の湿地帯が割当られ、幕府公認の遊郭【葭原】が誕生する事になりました。

風呂屋と遊郭

現在の吉原はソープランドという浴場がメインです。しかし、江戸時代は遊郭と風呂屋は商売敵でした。

日本橋で営業していた遊郭【葭原】は、夜の営業を禁止されていた為、昼間のみ遊べるようになっていました。

そこで勢力を伸ばしていったのが湯女のいる風呂屋です。夜の営業ができない遊郭に比べ風呂屋は夜営業できます。遊郭が出来てからは、そのエリア以外で遊女屋を営むことは禁止されていましたが、風呂屋で垢すりや髪すきのついでに女遊びが出来る店が増えていったのです。

新吉原への移転

江戸の町は拡大していき、日本橋周辺も大名屋敷などが増えていきます。幕府は遊郭を現在の台東区に移転させることにしました。遊女屋たちは日本橋で続けたいと反対したそうですが、幕府に逆らう事はできず、同意する事になります。

幕府は移転させる代わりに、遊郭の規模を大きくし、夜営業を許可します。さらに、競合である女遊びのできる風呂屋を取り潰し、風呂屋に風呂屋者(風呂屋の遊女)を置くことを禁止しました。

新吉原への移転以降は、昭和31年にその幕を閉じるまで、繁栄し続けて行くことになります。

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